みなさま
表題に関する講演会を聴講しました。
講演タイトルは「夢を実現した傑人 清水安三先生の生き様に学ぶ」です。
講演者は桜美林大学名誉教授 久保田圭作先生
講演日は2019年11月23日、場所は清水安三先生ゆかりの高島市新旭公民館でした。
滋賀県を代表する傑人といえば神功皇后、額田王、天智天皇、山辺赤人、最澄、中江藤樹、井伊直弼などがすぐ想起できます。そんな傑人の中の一人に近年では清水安三(1891-1988)がいます。
講演内容の要約をご紹介します。
1. 清水安三先生、出生から中国での活動まで
安三先生は現高島市新旭町の生まれで、同志社大学神学部を卒業後、25歳のとき、日本組合基督教会が派遣した最初の宣教師として中国に渡りました。その出発に当たっての記者会見の席で、彼は次のように語っています。
「ぼくはシナに渡って20歳代で小学校を、30才歳で中学校、40才代で高等学校を、50才代で大学を建てるつもりです」と。この大言壮語ともみえる言葉を吐いたあと、結論を先に言うと見事その通りに実現しているのです。(この記者会見の模様は翌日の朝日新聞毎日新聞に大きく取り上げたれた)
講師はこの話をされる前に「邂逅」(出会い)がいかに大切であるかを強調されました。邂逅は現に生きている人との出会いはもとよりのこと、書物の中で歴史上の人物との出会いも含まれます。いついかなる時にいかなる偶然によって、どのような人物に出会い、そこでどのような影響を受けたか、これは人生の重大事であり、それによって一生が決定する場合も少なくない。邂逅こそ人生の重大事であります。いかに高邁な目標を掲げたとても、それは一個人だけでは達成されないものです。その邂逅という側面で安三先生の人格形成に影響を与えた人たちに中江藤樹(安三先生と同郷)、W.M.ヴォ―リズ、新島襄、徳富蘇峰、鑑真和尚がいます。物的面で支えた人では米国のオべリン大学留学に経済的援助をした倉紡社の大原孫三郎がいた。安三先生の理想に賛同してくれた人たちもいたが、彼は自らも積極的に広く国内外での募金活動を重ねている。
安三先生が中国に渡ることを決意したのは鑑真和尚が幾たびかの失敗の後、日本に渡来して日本のために貢献したことに感激し、自分は中国伝道のために尽くそうとしたのが直接の動機だったそうです。安三先生が1917年に中国に渡り奉天(現在の瀋陽)で児童館を開設。翌々年に北京に移り、最初の仕事は1919年に華北地区で起こった大干ばつにあえぐ児童を救うために「被災児童収容所」を朝暘門外に設立し、799人の児童を収容したことであった。災害から復旧し翌年に児童を親元に帰した後、その収容所の跡地に貧困女子のための「崇貞工読女学校」を設立、21年にはこれを「崇貞学園」と改称して広く女子生徒を教育する学園とした。しかし残念なことに心血を注いで設立し、26年間にわたって運営した「崇貞学園」の資産は、敗戦とともにすべて没収され、その翌年3月に54歳で帰国することになるが、このあとがすごい。
ちなみに北京の「崇貞学園」はその後「陳経綸中学校」に引き継がれたが、時代が下がって2000年に安三先生の功績を称えて、それを記念する碑を建てている。そこに記された碑文が後に述べる先生の言葉「学而事人」。中国広しと言えども学校の中に日本人を顕彰する碑が建ったのはこれが最初だそうです。
2. 桜美林学園時代
終戦の翌年3月19日に中国から山口県の仙崎港に引き揚げた安三先生は、京都や滋賀には立ち寄らず、22日に東京に直行した。この先がドラマで、翌23日に神田錦町で偶然賀川豊彦先生と出会い、学校設立の意思表示をすると、町田にある片倉組所有の造兵廠跡地と建物(宿舎)が学校設立に役立つ旨の紹介を受け、さっそく翌24日にはその跡地見分のため淵野辺の造兵廠跡地に向かう。そしてその場で「よし、ここに学園を建てることに決めた」と決意し、そのままその土地と建物を手に入れることになったというのです。
舞台装置が整った後、これもすごい話ですが、その翌月の4月には文部省に出向いて学校設立認可の申請をします。その際渡り合った文部省の担当課長の理解をえて、そのまま認可となり、なんと同年5月5日には「桜美林学園」の開校式を迎えるのです。当節なら学校設立がこんなに早く進むことは絶対にあり得ません。戦争で何もかも無くした当時の事情が逆に幸いしたかどうかは分かりませんが、安三先生の不屈の精神と帰国直後の賀川豊彦氏との出会い、そして文部省の担当課長との邂逅がなければなしえなかった話です。講師の久保田先生が述べられた「邂逅」の大切さが、ここでよく理解できます。
このあと1946年5月29日に桜美林高等女学校を開校、1947年3月には戦後の学制改革に従って桜美林中学校と桜美林高等学校、さらに1950年の桜美林短期大学の設置と続きます。戦後の極端な物資不足のなかで安三先生が学園運営のための募金活動に内外講演旅行に奔走したのもこの頃です。そして安三先生が生涯最良の日を迎えられたのは、1966年1月30日に桜美林大学文学部の設置が認可された時でした。振り返ると彼が中国に旅発つとき、新聞記者の前で語った夢は大学の設立こそ少し遅れたものの、すべての願望と夢を現実にした瞬間でした。
このあと経済学部の設立、国際学部の設立と続き、先生の没後は大学院も開設し、その後も各部や学科の新設が続いて2000年代には学生数1万人を超える学園に発展しています、そして2021年には学園創立100年を迎えます。
3.安三先生の教育理念
安三先生は帰国後、学園設立とその発展に寄与する傍ら、幼少期から敬慕していた中江藤樹の研究に取り組み、独自の藤樹観を生み出して数多くの著作を残しました。そして中国での崇貞学園時代とその後の桜美林学園時代を通じての一貫した教育理念は①学而事人(がくじじじん)と②国際性でありました。
「学而事人」(学んで人に事える)とは、「学問は自分の利益のために為すのではなく、社会に役立てるためにするものである」ということです。「国際性」に関しては、建学の精神に標榜されているキリスト教精神に基ずく国際的人格の育成により、グローバル社会に貢献する人材の育成を目指すものです。そして国際人の育という発想の源流は、ヴォ―リズや賀川との出会いに繋がるところがあると説明されました。さらに建学の理念を具現化するため、外国人留学生を積極的に受け入れ、大学の外国
人留学生の割合を25%まで高める方針を打ち出していて、そのための奨学金事業の一層の充実にも取り組んでいるそうです。
安三先生のこのような教育理念の思想的背景としては、キリスト教の中核教義である「信・望・愛」(信仰と希望と愛)と中江藤樹の儒教思想である「到良知」(良知に到る)があります。「到良知」は安三先生が自己実現を達成するにあたって心底の深くに刻印されていたモットーであったとの説明がなされました。また先生の藤樹研究はキリスト教と関連づけるところがかなりあって、例えば「中江藤樹はキリシタンであった」と彼をして言わしめたうで驚きましたが、先生には同名の著作(1959)があり、ここにはキリスト教と藤樹思想の併存を追求した安三先生の思想的営みがあるように思われます。
4.安三先生の生き様
安三先生の生き様に見られる特徴として、講師は先生を「夢見る人」と評されました。そして講師の 専門的分野である心理学の立場から「夢」の語義と、夢の心理学的研究や生理学的研究の歴史についての説明がなされました。さらに夢の肯定的側面として、「夢は人生を豊かに生きるために大切なもの」と説かれました。安三先生はそんな意味で「夢見る人」であったというのが一つの結論でした。その一例として、桜美林高校の野球部が弱小で負けることが常態であったころに安三先生は、そのうちに甲子園で優勝してみせると言われた。そのようなことはまさに夢物語で誰も信用せず、先生の大ホラとして見過ごしていた。しかし、何年か後に桜美林高校が甲子園で優勝を果たし、夢が夢でなく現実となった。この時、先生の詠んだ歌が「夢を見よ 夢は必ず成るものぞ うそと思わば甲子園に聞け」だったそうです。
しかし前半の講演ではどうしても不撓不屈の精神で目標を達成するための強い実践者という側面の方が目立ちました。それも事実で先生は、戦前の中国で、また戦後廃墟の日本で幾多の厳しい窮状を乗り越えてこられた、このなかで安三先生を支えたのは「われら四方より艱難を受くれども窮せず、せん方尽きれどものぞみを失わず」という聖書の言葉であった。
また安三先生の生き様を貫いているのは、キリスト教の教は愛の宗教であると言われるが、その核心である「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」を安三先生は漢語的に表現して「利人不利己」(人を利して己を利せず)という言葉で表現されている。これは平易な言葉でいうと「たとえ損になろうとも、隣人のためにつねにはかっておあげなさい」ということだと諭されると少しは分かったような気がしました。
つまるところ、「不撓不屈の精神をもって自分に与えられた能力を最大限に発揮して、その人らしく生き生きと生きることによって夢は必ず実現する」ということを改めて知らされた内容の講演でした。冒頭に述べられた人との「邂逅」の重要性もあって、安三先生のラッキーな側面もあったかもしれませんが、それもその人の能力の一部だと考えればやはり人間には夢が必要なようです。
[講演聴講後の雑感]
滋賀県を知らない人は関西人ではまずいません。しかし地方に目を向けると意外と滋賀県の理解者は少ないものです。知っているのは琵琶湖のある県だったかなと思う程度で、とても地味な県です。これは私見ですが、その琵琶湖の存在が人の性格を円満でおおらか、しかも外向的で夢見る人にしている要因があるように思えるのです。そのためか滋賀県人で著名な人は圧倒的に文人が多く、しかもその多くがとても長命です。最近の統計では日本人男子の平均寿命は沖縄県、長野県を抜いてついに全国トップに躍進しています。清水安三先生も多の苦難を乗り越えながらも長命な人でした。
最後になりますが、ネットで著名な滋賀県人を検索すると、思想家、宗教家の欄に中江藤樹と清水安三の名があります。ともに現高島市の人です。
蛇足乍ら、これらのことをとても誇りに思う私は多少利便性の不足を感じつつも、出生地の滋賀県の戸籍をいまなおキープしています。
島津京太郎(昭31年卒)
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