支部便り
東京支部会員の林寺紘氏(S37卒、林寺メディノール社長)が金沢大学で講演をされました。テーマは「自らの道を切り拓く~透析療法のフィールドに耳をすまして」です。
下記学生向け案内状に記載の通り、林寺紘氏は「医療機器販売会社」を創業され立派な経営者として活躍されています。この度自らの体験に沿って講演され、学生を中心とした参加者は大きな感銘を受けたことと思います。
東京支部会員のご活躍を知ることは誠に喜ばしいことであり、身近な方のご活躍は会員の皆さまの活性化に大きく資するものと思います。
3,講演結果の感想
- 出席者は定員の80名、満席でした。
- 参加者の多くは医療にはあまり関心なく、医学の専門用語に立ち向かい資料を一生懸命読んでおられました。
- 熱心な参加者から多くの質問を受けました。
- 起業:「お金はどのように準備できたか、事務所は借りたのか、人の問題は」等々
- 海外取引:「どのように開始できたのか、どこで知ったのか、取引できた決め手は?」
のように多岐にわたりました。
※ご参考:林寺メディノールのHPのURL https://www.hayashidera.com/
掲載責任者 藤陰会東京支部会長 竹谷 格(S48卒)
お正月にお送りしました「ちくぶ」の記事に誤りがありました。訂正しお詫び申し上げます。
訂正箇所 4頁から5頁 谷口貴代美さまの会員だより
冒頭の4行「早いもので上京し35年、気づけばアラフィフ世代に突入しています。
19世紀のスイスの社会心理学者ユングは「人生の正午は45歳である」と太陽の運行に例えました。
人生の正午は45歳である → 人生の正午は40歳 であるに訂正。
5頁の右側冒頭の「4年前から再上京が叶い15年ぶりに東京の地で仕事をしています。」
4年前から → 3年前から に訂正
以上の二か所に誤りがありました、訂正させていただきます。また執筆者に不快な思いをさせ、
ご迷惑をおかけしました。改めてお詫び申し上げます。広報委員長
新型コロナ感染拡大により、常任幹事会として「2021年3月8日予定の支部総会開催中止」やむなしとの苦渋の決断を致しました。
総会開催中止に伴い、総会において承認を取得することが会則に規定されている
下記 4議案について書面同意を以て決議に替えることをお願いしました。
第1号議案 :2020年度事業報告と収支決算報告承認の件
第2号議案 :会長・副会長・常任幹事・監事の選任の件
第3号議案 :2021年度事業計画と収支計画承認の件
第4号議案:東京支部会則の一部改定の件
同意書の送付数:626人
同意書の返信数:198人(32%)内容は4案全て賛成
なお、期日までに返送いただけない方は、「すべての議案を承認する」
と見做させていただくと連絡していました。
結果として全ての方から承認を頂いたことになります。
会長として6年間務めさせて頂きました。
ご協力くださった多くの方々に心からお礼申し上げます。
第2号議案で会長・副会長・常任幹事・監事の選任に対し承認され、
竹谷会長による新体制が発足しました。
今後とも皆さまのご支援・ご協力いただきたくお願いします。
福本 武也(昭和39年卒)
藤陰会東京支部の皆さま
高島市役所の総合戦略から「コロナに負けない!ふるさと納税」の企画のご紹介をいただきました。
ご一読いただき、ふるさと納税される場合にご活用されることを願ってお送りします。
―――――――――――「コロナに負けない!ふるさと納税」の企画のご紹介―――――
さて、高島市では「ふるさと納税」を活用して、コロナ禍で様々な影響を受けている方を支援するため、
「コロナに負けない!ふるさと納税」と題して、オリジナルの企画を展開しています。
もし、何かの機会に同窓会の皆様にも情報共有をいただけるようでしたらと思いメールをいたしました。
●「コロナに負けない!ふるさと納税で三方よし お米シェアプロジェクト」(継続中)
・概要:寄付者の方にお送りする返礼品(お米)のうち、一部を高島市内で食に不安を抱える世帯の方におすそ分けいただく企画です。
例えば、通常寄付者の方に5kg×3袋のお米をお送りするところ1袋をおすそ分けいただき、市がお預かりしてフードバンクびわ湖高島支部にお渡しし、高島市内のひとり親家庭や生活困窮世帯、子ども食堂等にお配りしています。これまで寄付者の方から140kgのお米をおすそ分けいただき、フードバンクに寄贈しています。
https://www.furusato-tax.jp/feature/detail/25212/5528
●「コロナに負けない!第2弾 ふるさと納税で道の駅応援!キャンペーン」(9/10まで)
・概要:コロナ禍で観光客が減少している市内3つの道の駅の特産品を詰め合わせた返礼品企画です。道の駅では先の「緊急事態宣言」中、やむなく施設を休館せざるを得ない期間がありました。宣言が解かれた現在でも、県外への移動や帰省を自粛されている方は多くいらっしゃると思います。こうした中、道の駅が地域の農家や小規模事業者がつくる物産を掘り起し、これらを詰め合わせて全国の方々の下にお届けする取り組みを市としてサポートしています。小さな事業者一人ではなかなか市外に販路を開拓することができませんが、「道の駅」が地域商社機能を担うことで、「まるで高島に行ったような気分になれる」「まるで高島に帰省した気分になれる」返礼品をお届けします。
https://www.furusato-tax.jp/feature/detail/25212/6566?city-product_original
上記につきまして、何かの機会に情報共有等いただけますと幸いです。
会員の皆様が、上記サイトをSNS等でシェアくださるようなことも大歓迎いたします。
いずれも、リンク先の「ふるさとチョイス」からクレジット寄付が可能ですが、本市にお問い合わせいただければ郵便振替でのご寄付もご案内可能です。
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高島市 政策部 総合戦略課 戸田由美
〒520-1592 滋賀県高島市新旭町北畑565
TEL:0740-25-8114
FAX:0740-25-8101
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東京支部 会長 福本武也
クリスマスの飾りつけが華やかな銀座の中央通りから一本入った「すずらん通り」にお店がありました。
表題に関する講演会を聴講しました。
講演タイトルは「夢を実現した傑人 清水安三先生の生き様に学ぶ」です。
講演者は桜美林大学名誉教授 久保田圭作先生
講演日は2019年11月23日、場所は清水安三先生ゆかりの高島市新旭公民館でした。
講演内容の要約をご紹介します。
安三先生は現高島市新旭町の生まれで、同志社大学神学部を卒業後、25歳のとき、日本組合基督教会が派遣した最初の宣教師として中国に渡りました。その出発に当たっての記者会見の席で、彼は次のように語っています。
「ぼくはシナに渡って20歳代で小学校を、30才歳で中学校、40才代で高等学校を、50才代で大学を建てるつもりです」と。この大言壮語ともみえる言葉を吐いたあと、結論を先に言うと見事その通りに実現しているのです。(この記者会見の模様は翌日の朝日新聞毎日新聞に大きく取り上げたれた)
ちなみに北京の「崇貞学園」はその後「陳経綸中学校」に引き継がれたが、時代が下がって2000年に安三先生の功績を称えて、それを記念する碑を建てている。そこに記された碑文が後に述べる先生の言葉「学而事人」。中国広しと言えども学校の中に日本人を顕彰する碑が建ったのはこれが最初だそうです。
終戦の翌年3月19日に中国から山口県の仙崎港に引き揚げた安三先生は、京都や滋賀には立ち寄らず、22日に東京に直行した。この先がドラマで、翌23日に神田錦町で偶然賀川豊彦先生と出会い、学校設立の意思表示をすると、町田にある片倉組所有の造兵廠跡地と建物(宿舎)が学校設立に役立つ旨の紹介を受け、さっそく翌24日にはその跡地見分のため淵野辺の造兵廠跡地に向かう。そしてその場で「よし、ここに学園を建てることに決めた」と決意し、そのままその土地と建物を手に入れることになったというのです。
舞台装置が整った後、これもすごい話ですが、その翌月の4月には文部省に出向いて学校設立認可の申請をします。その際渡り合った文部省の担当課長の理解をえて、そのまま認可となり、なんと同年5月5日には「桜美林学園」の開校式を迎えるのです。当節なら学校設立がこんなに早く進むことは絶対にあり得ません。戦争で何もかも無くした当時の事情が逆に幸いしたかどうかは分かりませんが、安三先生の不屈の精神と帰国直後の賀川豊彦氏との出会い、そして文部省の担当課長との邂逅がなければなしえなかった話です。講師の久保田先生が述べられた「邂逅」の大切さが、ここでよく理解できます。
このあと1946年5月29日に桜美林高等女学校を開校、1947年3月には戦後の学制改革に従って桜美林中学校と桜美林高等学校、さらに1950年の桜美林短期大学の設置と続きます。戦後の極端な物資不足のなかで安三先生が学園運営のための募金活動に内外講演旅行に奔走したのもこの頃です。そして安三先生が生涯最良の日を迎えられたのは、1966年1月30日に桜美林大学文学部の設置が認可された時でした。振り返ると彼が中国に旅発つとき、新聞記者の前で語った夢は大学の設立こそ少し遅れたものの、すべての願望と夢を現実にした瞬間でした。
安三先生は帰国後、学園設立とその発展に寄与する傍ら、幼少期から敬慕していた中江藤樹の研究に取り組み、独自の藤樹観を生み出して数多くの著作を残しました。そして中国での崇貞学園時代とその後の桜美林学園時代を通じての一貫した教育理念は①学而事人(がくじじじん)と②国際性でありました。
人留学生の割合を25%まで高める方針を打ち出していて、そのための奨学金事業の一層の充実にも取り組んでいるそうです。
安三先生のこのような教育理念の思想的背景としては、キリスト教の中核教義である「信・望・愛」(信仰と希望と愛)と中江藤樹の儒教思想である「到良知」(良知に到る)があります。「到良知」は安三先生が自己実現を達成するにあたって心底の深くに刻印されていたモットーであったとの説明がなされました。また先生の藤樹研究はキリスト教と関連づけるところがかなりあって、例えば「中江藤樹はキリシタンであった」と彼をして言わしめたうで驚きましたが、先生には同名の著作(1959)があり、ここにはキリスト教と藤樹思想の併存を追求した安三先生の思想的営みがあるように思われます。
安三先生の生き様に見られる特徴として、講師は先生を「夢見る人」と評されました。そして講師の 専門的分野である心理学の立場から「夢」の語義と、夢の心理学的研究や生理学的研究の歴史についての説明がなされました。さらに夢の肯定的側面として、「夢は人生を豊かに生きるために大切なもの」と説かれました。安三先生はそんな意味で「夢見る人」であったというのが一つの結論でした。その一例として、桜美林高校の野球部が弱小で負けることが常態であったころに安三先生は、そのうちに甲子園で優勝してみせると言われた。そのようなことはまさに夢物語で誰も信用せず、先生の大ホラとして見過ごしていた。しかし、何年か後に桜美林高校が甲子園で優勝を果たし、夢が夢でなく現実となった。この時、先生の詠んだ歌が「夢を見よ 夢は必ず成るものぞ うそと思わば甲子園に聞け」だったそうです。
つまるところ、「不撓不屈の精神をもって自分に与えられた能力を最大限に発揮して、その人らしく生き生きと生きることによって夢は必ず実現する」ということを改めて知らされた内容の講演でした。冒頭に述べられた人との「邂逅」の重要性もあって、安三先生のラッキーな側面もあったかもしれませんが、それもその人の能力の一部だと考えればやはり人間には夢が必要なようです。
最後になりますが、ネットで著名な滋賀県人を検索すると、思想家、宗教家の欄に中江藤樹と清水安三の名があります。ともに現高島市の人です。
tarosmz3309@ozzio.jp